と申してみます、明日が一つ目の山場な山羊です。
しかしココまで来て無駄に足掻くよりも放置気味なこのブログでちょいちょい書いてた方がよさ気じゃね?とか。
さて、そして今日はもういい加減話しててスルーが入るラノベについて書いてみます。
先日中学時代の友人と話していたのですがどうにも『萌え』でないラノベ読者はこの頃生きにくくなってまいりました。
と、言うのも矢張り流行のため売れるのか、流行に流されて中身で選んでないのか近頃どこの書店に行っても芽吹いてしまった感じの本ばかりが『ライトノベル』と銘打たれたコーナーに鎮座されて、否、占拠している状況にかち合うわけです。
そもそも『ライトノベル』と言う語自体は日本語に直せば『軽い小説』。文体として多く出回っている他の書籍よりも表現や話の展開が軽い、というもの。
とっつきやすさで言うなら児童文学よりは難しく、一般的に<小説>と括られるものよりは楽な位置にある書籍群の総称であるはずの『ライトノベル』。
しかし最近多く出ているライトノベルに分類される本は内容に同じような方向性がある。しかして、何時の間にやら『ライトノベル』の語が怪談小説、ハートフルといったジャンルを指すような言葉と見られるようになってきた。
しかもそうしたライトノベル『ジャンル』に属する本を読んだ人の中に多くヤラカス輩がいる。
そうした目立った行動などをとる人々は当然周囲の目に留まる。且つ、そうした人々の行動が社会から『奇行である』と見做され、引かれる。
斯くしてめでたくジャンル全体への蔑視の動きが生まれたわけである。
規模や質で違うと言われればそうではあるのだが、例えば<小説>と言う媒体が今回直木賞を受賞した本のような内容、雰囲気の本でほぼ埋め尽くされたとする。そして大人達の層から『余りにあけっぴろげで破廉恥である』などの判を捺され、小説に入っていくと冷ややかな目で見られるというようなことになったとしよう。
そこに絶滅寸前の宮沢賢治などの日本文学、残っているのかも怪しいル・グウィンの米国文学を探しに分け入るとなると非常に気まずい。なにしろ書店で<小説>のジャンルに入るだけで非常にアレな目で見られ、お目当てのものがあるかも分からない。こうなったら視線を諦めるか、本を諦めるか、周りで雑誌やら歴史書やら参考書やらを見ながら本棚をチマチマと端から検索していくしかなくなってくる。
まぁ現実味は薄い話ではあるが、兎にも角にも気分としてはそんなものだ。
で、話はここで戻るのだが、そのように芽吹きジャンルに押されてきたライトノベルの棚では非常に入りづらいと。
困ったのが出版社や絵柄で判断されてザックリ棚分けされているのか、単行本で出た絶版書籍を文庫サイズで復刊したときである。ファンタジーのためファンタジーコーナーに置くにも周りとはサイズが違う。仕方がない、出版社的にもライトノベルコーナーに置こう。ゃゃ、どうにも売れ行きの本の主流ではないぞ?棚換えしようかな?
成程、書店としては当然の流れなのやも知れぬ。だがこれでは困る。何が困るって1冊520ページ程度ある単行本(¥2.900)を上下巻で揃えねば読めぬということになる。しかも絶版故に古本で探す手間がかかる。
対して文庫版では1冊600円そこそこで買えてしまう。4冊になっていても総額は元の半額以下、持ち運びも楽々
、授業中にも読みやすい。
はて困った、これは如何したものであろう?
とかってグタグタと書いてきたわけですが何がアレって内容如何ではなく名前で売れたりしてるコト。情報を伝える文字の集積体であるにも拘らず。
山羊がかの有名なゲド戦記に出会ったのは小学生(だったはず・・・)の頃。出かけていった帰りに寄ったどこぞの書店での出会い。その棚と何故か帰り道の歩道橋は憶えている。
そのゲド戦記も世界三大ファンタジーと呼ばれたりするも、あの時はそう大きくは無い、余り目立たないスペースに置いてったワケですよ。あの時はまだハードカバーとソフトカバーの単行本しかなく、巻数も4巻までしか出てなかったんですがね。
ソレが映画化したら文庫が出て結構売れたとか。
他にも直木賞・芥川賞受賞作はソレまでは見向きもしなかった人たちが一斉に買いあさったり。『普段読まないけど高名な賞の受賞作ぐらいは読んでおこう』ってなら別段構わないし、いいとも思うんですが、それだけであたかも『本読んでます!』『これぞ文学!』となり、読んでもいない本を貶していたりすると、『何を言っているんだい?ww』となるワケで。
そんなこんなで話が纏まらない感はアレだけど、とりあえずはラノベって時点で引かないでくれwwww
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